福岡出張

12月14日,15日は一泊二日で福岡へ出張した.

14日:行きに乗ったのはレイル・スターという新幹線.普通の新幹線に比べると座席がゆったりしている.私は6号車(だったかな)に座ったのだけど,4号車はサイレンス・カーといって車内放送のない静かな車両のようだ.そちらも試してみたいと思った.

夜は,もつ鍋の店に連れて行ってもらう.大名近くの店.入り口がホテルのフロントの雰囲気を漂わせていてびっくり.とても広い店にもかかわらずほとんど満席でまたびっくり.料理もおいしかった.店を出たのが8時くらいと早かったので,もう一軒行くことになった.九州の焼酎を3杯ばかり.名前は忘れたけど福岡の地元の芋焼酎と,「佐藤」と,やはり名前を忘れたけど米焼酎の3杯.もつ鍋の店でもビールを飲んでいたので,私にとっては飲み過ぎ…….とても良くしてもらって感謝!

15日:帰りは,700系ののぞみに乗った.昨日の夕ご飯のときの会話で,700系は揺れが少ないと聞いたのだけど,私はよく分からなかった.でも揺れが気にならなかったということは、きっとそうなのだろう.窓側の席にはすべて電源がついているので,持ってきたノート型パソコンを充電した.今回は新幹線を使ったけど,比較するために,今度行くときは飛行機にしようと思う.

福岡はとても好きな街だ.多少,個人的な思い入れのある街でもあるのだけど.

連想『アカシヤの大連』

アカシヤの大連 (講談社文芸文庫)

アカシヤの大連 (講談社文芸文庫)

私がたしか大学1回生の頃(十何年も年も前のこと)に読んだ小説に,清岡卓行氏の『アカシヤの大連』がある.これはとても甘美な恋愛小説だと思う.最愛の妻を病で失った清岡が,彼女との馴れ初めを振り返る.思い出の中の彼女は余りにも美しい.死別の辛さがいまあるだけに,追想の甘美さはひとしおまさる.

「ああ,きみに肉体があるとはふしぎだ」と清岡氏は書く.当時大学生の私にとって,この一文は官能的だった.今でも覚えていてこうして思い出すくらいなのだから.もともとは,『アカシヤの大連』より10年くらい前に刊行された詩集『凍った焔』に出てくる一文のようだ.

アカシヤの大連』の連作に『朝の悲しみ』がある.そこでは,妻を失った男のいまが綴られている.甘美な想い出と喪失の悲しみに生きている男の回りでは,時間が停留している.男の書いたものを扱う編集者は女性なのだが,男は失った妻と編集者を比較してしまう.どこまでが事実に基づいているのか分からないし,こういう比較の部分は失礼というか醜悪さを感じるのだけど,清岡氏の本音も書かれているのだろう.(『朝の悲しみ』の中で,メシアントゥーランガリラ交響曲が出てくる.当時大学1回生の私はCDを聴いたのだけど,正直,よく分からなかった.)

実際の清岡氏は,最初の妻が亡くなった2年後に再婚した.今調べてみると,清岡氏は当時47歳,再婚相手の岩阪恵子女史は24歳だった.岩阪女史がどこかで書いていたと思うのだけど(うろ覚え),彼女は詩だったか小説だったかを書きたくてに誰かに相談したら清岡氏を紹介されて,清岡氏に手紙を書いたという.そして,それが未来の夫となる人だった.

私が勝手に想像して書くのだけど,妻との別れで前に進めなくなっていた清岡氏の人生は,再婚によって新しく流れ始めたのではないだろうか.

私は京都の丸善(いまは無いけど)に行くのが好きだった.何か面白そうな本はないかと,いろいろな本のコーナーを回った.1999年頃だと思うが,清岡氏の小説『マロニエの花が言った』を見つけた.(私の本の好みも変化していたので)その本は買わなかったけれども,そのとき「清岡氏はずいぶんな年だと思うけど,こんな分厚い本を書くのか」と思ったのを覚えている.(今調べてみると,清岡氏は1922生まれで,60代後半から70代後半にわたる著作のようだ.)2006年に,新聞で清岡氏の訃報を見た.

私は,作家の本を読んでいるときに,湿った雰囲気か乾いた雰囲気かを感じるときがある.清岡氏の『アカシヤの大連』や『朝の悲しみ』は,透き通っているけどやや湿った雰囲気.逆に,スタンダールの『パルムの僧院』は豊潤だけどカラッとした感じ,ゲーテの『ファウスト』もオドロオドロしさがあるもののやはり乾いた感じ(これらは私がそう感じるというだけである.そう思わない人もたくさんいるだろう).誤解のないように書いておくと,大学時代に私はいろいろな本を読んだけど,湿った雰囲気の本よりは,カラッとした雰囲気の本を好むことが多かった.